平将門命とは?関東の民を守った神田明神の三之宮

目次

1. 平将門命の概要

平将門命(たいらのまさかどのみこと)は、平安時代中期に関東で勢力を広げた武将・平将門を神としてお祀りした御祭神です。

東京都千代田区に鎮座する神田明神では、三之宮の御祭神として祀られ、「まさかど様」の名で親しまれています。

平将門は関東で独自の勢力を築き、朝廷から派遣された国司と対立しました。最終的には「新皇」を名乗ったと伝えられ、朝廷から反逆者として討伐されました。

一方、関東では、既存の支配に苦しむ人々を守ろうとした人物として伝えられています。死後はその霊を慰める信仰が生まれ、やがて地域を守護する神として祀られるようになりました。

神田明神では、平将門命を除災厄除の神として案内しています。

2. 平将門命の読み方と別名

平将門命の読み方は、「たいらのまさかどのみこと」です。

関係する主な名称には、次のものがあります。

・平将門命
・平将門
・平将門公
・将門公
・まさかど様

歴史上の人物として紹介する場合は「平将門」、敬意を込める場合は「平将門公」と呼ばれます。

神田明神の御祭神としては、「平将門命」という神名が使われています。

「まさかど様」は、神田明神における親しみを込めた呼び名です。御祭神マスターでは、代表名を「平将門命」、別名を「平将門」「平将門公」とすると整理しやすいでしょう。

3. 平将門の出自

平将門は、桓武天皇の子孫にあたる桓武平氏の一族とされています。

父は平良将とされ、現在の茨城県西部から千葉県北部にかけての地域を基盤とした豪族の家に生まれました。

ただし、平将門の正確な生年や出生地については、確実には分かっていません。

後世には茨城県坂東市、常総市、守谷市など、関東各地に将門の出生地や居館に関する伝承が残されました。

これは平将門が一つの地域だけでなく、広い範囲で人々の記憶に残った人物だったことを示しています。

4. 関東で起きた一族の争い

4.1 親族との対立

平将門が戦いに関わるようになった最初のきっかけは、朝廷への反乱ではなく、一族内の土地や権益をめぐる争いだったと考えられています。

将門は、父の死後、親族である平国香、平良兼、平良正らと対立しました。

承平5年(935年)には、常陸国で将門と親族勢力との戦いが起きています。

この争いで平国香が亡くなり、その後も将門と親族との戦闘が続きました。

当初の将門は、朝廷を倒そうとして戦いを始めたわけではありません。地方の有力者同士による私的な争いが、次第に大きな事件へ発展していったと考えられます。

4.2 朝廷による裁判

将門は一族との争いについて朝廷へ訴えられ、京都へ呼び出されたこともありました。

しかし、朝廷の裁定や恩赦によって、一度は関東へ戻っています。

この時点では、将門は朝廷から完全な反逆者として扱われていたわけではありません。

その後も関東では地方豪族同士の争いや、国司と地域住民との対立が続きました。こうした不安定な状況の中で、将門の勢力は拡大していきます。

5. 国府を占領した平将門

5.1 常陸国府への進軍

天慶2年(939年)、平将門は常陸国府へ進軍しました。

きっかけは、常陸国司と対立していた藤原玄明を将門が保護したことだったと伝えられています。

将門は常陸国府を攻め、国司側の軍勢を破りました。

国府は、地方を統治する朝廷の役所です。国府への攻撃は、単なる一族間の争いとは異なり、朝廷の支配そのものに対抗する行為でした。

これを境として、将門と朝廷との対立は決定的になりました。

5.2 関東各国への勢力拡大

常陸国府を破った後、将門の軍は下野国や上野国などの国府にも進みました。

将門は短期間のうちに、関東の複数の国へ勢力を広げたとされています。

国立歴史民俗博物館の資料でも、10世紀に東国で平将門が「新皇」を名乗って自立し、西国で藤原純友が活動した一連の争乱を、承平・天慶の乱として説明しています。

6. 「新皇」を名乗ったという伝承

平将門は、関東の支配を進める中で「新皇」を名乗ったと伝えられています。

新皇とは、新しい天皇という意味です。

平将門の乱を伝える『将門記』では、八幡大菩薩などの神託によって将門が新皇の位を与えられたという内容が記されています。

将門は関東に独自の政府をつくり、各国を治める役人を任命したとも伝えられています。

ただし、将門が実際にどのような儀式を行い、どの範囲で新皇を名乗ったのかについては、分からない点が残っています。

それでも、将門が朝廷とは別の政治的な支配を関東に築こうとしたことは、平安時代の国家にとって重大な出来事でした。千葉県立大利根博物館も、将門が下総・常陸を中心に勢力を広げ、新皇を名乗ったと説明しています。

7. 平将門の最期

将門が関東各地の国府を占領したという知らせを受け、朝廷は将門を追討する命令を出しました。

朝廷側では、平貞盛や藤原秀郷らが将門の討伐に動きます。

天慶3年(940年)、将門は現在の茨城県周辺で、平貞盛・藤原秀郷らの軍勢と戦いました。

戦いの中で将門は矢を受けて亡くなったと伝えられています。

ただし、誰が矢を当てたのか、どのような状況で討たれたのかについては、複数の説や後世の伝説があります。藤原秀郷が将門の乱を鎮圧したことは、栃木県立博物館の解説でも確認できます。

将門の死によって、関東での反乱は短期間で終結しました。

8. 将門の首にまつわる伝承

平将門が討たれた後、その首は京都へ運ばれ、さらされたと伝えられています。

後世には、将門の首が故郷の関東へ向かって飛び、現在の東京都千代田区大手町付近へ落ちたという伝説が生まれました。

この場所が、現在の将門塚と結び付けられています。

ただし、首が空を飛んだという話は、歴史的事実ではなく後世の伝説です。

神田明神では、将門塚を平将門公の御首を祀る墳墓であり、神田明神の創建地でもあると説明しています。

将門塚は、平将門の霊を慰め、災いが起こらないように願う場所として、長く大切にされてきました。

9. 反逆者と英雄という二つの評価

9.1 朝廷に反抗した人物

朝廷の立場から見ると、平将門は国府を攻撃し、新皇を名乗った反逆者です。

京都側で作られた記録では、将門は国家の秩序を乱した人物として描かれました。

将門を討った藤原秀郷や平貞盛は、反乱を鎮圧した功労者として評価されています。

9.2 関東の人々を守った人物

一方、関東では将門を民衆のために戦った英雄とする伝承が広がりました。

当時、地方では国司や有力者による厳しい支配や、土地をめぐる争いが起きていました。

将門は、こうした支配に苦しむ人々を保護し、関東に独自の秩序を築こうとした人物として語られるようになります。

ただし、「将門がすべての民衆を救うために反乱を起こした」と断定できる史料があるわけではありません。

反逆者と英雄という二つの姿は、将門の死後、それぞれの地域や時代の中でつくられてきた人物像でもあります。

10. 平将門命を祀る神田明神

10.1 延慶2年に奉祀

神田明神の公式由緒によると、平将門命は延慶2年(1309年)に御祭神として奉祀されました。

将門の死から約370年後にあたります。

将門塚の周辺では、天変地異や疫病が起きた際に、将門の霊によるものではないかと人々が恐れたと伝えられています。

時宗の僧・真教上人が将門の霊を慰め、神田明神へ祀ったという由緒が伝わっています。神田明神の年表では、徳治2年(1307年)に真教上人が将門公の霊を慰め、延慶2年(1309年)に合祀したとしています。

10.2 一時的な遷座と本殿への復座

神田明神では、明治7年(1874年)に平将門命が本殿から境内の摂社・将門神社へ遷されました。

その後、氏子や崇敬者から復座を願う声が上がり、昭和59年(1984年)に再び本殿の御祭神として祀られました。

現在は、次の三柱が神田明神の御祭神です。

・一之宮 大己貴命
・二之宮 少彦名命
・三之宮 平将門命

平将門命は三之宮として、神田や日本橋、大手町をはじめとする地域を守護しています。

11. 神田祭と平将門命

神田明神の例大祭である神田祭では、神社の御祭神が氏子地域を巡ります。

神幸祭では、平将門命をはじめとする御祭神をお遷しした鳳輦や神輿が、神田、日本橋、大手町などを巡行します。

行列は大手町の将門塚にも立ち寄り、奉幣の儀が行われます。

千代田区も、神田祭の神幸祭において、将門塚で江戸時代から続く奉幣の儀が執り行われていると案内しています。

神田明神と将門塚は場所こそ離れていますが、平将門命への信仰を通して現在も深く結び付いています。

12. 平将門命の御神徳

神田明神では、平将門命を除災厄除の神として案内しています。

一般には、次のような願いと結び付けて信仰されています。

・除災厄除
・勝運向上
・必勝祈願
・地域守護
・仕事運向上
・困難の克服
・事業の発展

ただし、神田明神が公式に明記している中心的な御神徳は、除災厄除です。

勝運や仕事運などの信仰は、将門が関東で大きな勢力を築き、困難な戦いへ挑んだ人物であることや、神田明神が江戸の商業地域を守ってきた歴史とも結び付いています。

13. 平将門命は怖い神なのか

平将門については、首塚を粗末にすると災いが起こるといった話が広く知られています。

しかし、こうした話のすべてが歴史的に確認された事実ではありません。

将門塚を大切に守ってきた背景には、亡くなった人物の霊を慰める御霊信仰があります。

非業の死を遂げた人物の霊を丁重に祀り、地域を守る神になってもらうという信仰は、菅原道真を祀る天満宮などにも見られます。

平将門命も、単に恐ろしい祟り神として祀られているのではありません。

神田明神では、関東の人々を守った人物として敬われ、災いを除いて地域を守護する神として信仰されています。

14. 各地に残る平将門信仰

平将門に関する神社、塚、城跡、伝説は、茨城県、千葉県、埼玉県、東京都など、関東各地に残されています。

地域によって、将門は次のような姿で語られています。

・関東を支配しようとした武将
・朝廷へ反抗した逆賊
・民衆を守った英雄
・土地を開発した人物
・死後に災いを起こした怨霊
・地域を守護する神

これらはすべて同じ時代に成立したものではありません。

平将門の死後、約千年にわたる歴史の中で、史実に伝説や信仰が重なり、多様な将門像が生まれました。

15. 平将門命の歴史的・文化的意義

15.1 武士の時代を先取りした存在

平将門が活動した10世紀は、後の鎌倉幕府が成立するよりも約250年前です。

当時は京都の朝廷が国を治める建前でしたが、地方では武力を持つ豪族が力を強めていました。

平将門は、関東の武士が朝廷から独立した政治権力を築こうとした早い例として知られています。

将門の試みは短期間で終わりましたが、地方武士が歴史の中心へ進出していく時代の変化を示す出来事でした。

15.2 反逆者から守護神へ

平将門は、生前には朝廷へ反抗した人物として討たれました。

しかし死後、関東の人々の間では英雄として語られ、霊を慰める信仰を経て、地域を守る神として祀られるようになりました。

神田明神で平将門命が現在も信仰されていることは、歴史上の人物に対する評価が、立場や時代によって変化することを示しています。

平将門命は、単なる反乱の指導者でも、恐ろしい怨霊でもありません。

関東の歴史、人々の記憶、御霊信仰が重なって生まれた神であり、現在は神田明神の三之宮として、東京の町とそこに暮らす人々を見守っています。

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